2012年5月9日水曜日

痛みのない愛


 
愛は、人間が本来持っている特性です。愛すること、愛されることは人間にとって最も基本的なニーズです。しかし愛は、私たちにとっておそらく最大の喜びであると同時に、最大の悲しみとなる可能性を秘めたものでもあるのです。愛について考える時、私たちは次のように問わずにはいられません。「痛みを味わったり結果として苦しんだりすることなく、愛することはできるだろうか?」この文章では、この重要な問題への答えを見つけていきたいと思います。


愛は生来必要とされるものであり、私たちはおいしい食べ物や果物を愛します。私たちの両親、配偶者、子供たち、親友たち、仲間たちを愛します。信仰深い人々、預言者たち、聖人たちを、生命、若さを、春、美しいもの、そしてこの世界を愛します。これら全ての物事、人々が、一時的もしくは永久に消失することによって私たちを放棄すること、もしくは彼ら自体の苦しみ(例えば病気、死、加齢)によって私たちを苦しませることは私たちの心に影響を与えます。そして私たちはこう問わずにはいられないのです。


「私はこれらを愛することをやめられない。痛みを伴わずにこれらを愛することは出来ないのだろうか?」と。痛みのない愛の処方箋はないのでしょうか。


意志によって、愛はその顔を一つの対象から他のものへと向けなおすことがあります。例えば、最愛の人が若干の見苦しさを示したり、あるいは彼や彼女が真に愛されるべき存在のベール、もしくは鏡であることを示したりした時、愛はその顔を比ゆ的な意味の愛される存在から、真に愛される存在へと向けなおすことがあります。


痛みのない愛の処方箋


愛する人との別れ、最愛の人の衰え、あるいは愛する人からの反応が少ないことなどによって、愛は痛みを引き起こすことがあります。痛みを伴わない愛を経験するためには、私たちの愛情の対象が永遠であり、衰えることなく、また確実に反応をかえしてくれる存在である必要があります。神だけがその特質を持つのです。神は永遠で、衰えることなく、またいつでも私たちの愛に答えて下さるのです。


したがって痛みを伴わない愛の処方箋とは、私たちの愛を神に捧げることであり、そして神ゆえに全てを愛することなのです。人が、愛しているものを愛さなくなると予想するのは不合理です。しかし全能の主ゆえに、神の名において愛することは可能なのです。いくつかの例を考えていってみましょう。


おいしい食べ物に対する愛着


おいしい食べ物、果物に対する愛着は、それらを、全能で慈悲深い主の恩恵と見なすことによって、神への愛へと変化させることができるでしょう。 それによって私たちのそれら食べ物に対する愛着は、
恩恵、慈悲、慈愛という神の美名への愛となるのです。さらに、それは感謝を引き起こします。そのような愛は許された範囲の中で満足を得ることを求めるもので、本来の魂ゆえでもあり、また慈悲深いアッラーの名ゆえでもあることを示します。それは熟考と感謝によって楽しむためのものなのです。


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両親への愛


人の両親に対する愛情と尊敬は、慈しみのうちにあなたを彼らに任せ、優しく世話をさせ、彼らにあなたを育てさせた神の英知と慈悲ゆえに、全能なる神の愛と関係付けられるものです。この愛情、敬意と慈しみが神ゆえのものであるというしるしは、彼らが年をとり、色々なことができなくなって、困難な状況にある時、私たちが彼らに対しより優しく、親切に、いたわりを持って振舞えるということです。クルアーンの次の章句は、それを示しています。


「あなたの主は命じられる。かれの外何者をも崇拝してはならない。また両親に孝行しなさい。もし両親かまたそのどちらかが、あなたと一緒にいて老齢に達しても、かれらに「ちえっ」とか荒い言葉を使わず、親切な言葉で話しなさい。」


両親に親切に接することは、それ以外にもクルアーンの多くの章で語られています。
神の唯一性と、いかなるものをも神に並べ置いてはいけないということはクルアーンの最も重要なメッセージです。クルアーンの4箇所において、両親に親切に接することが、この最も重要な原則の直後で命じられているのです。これは私たちの両親の権利がどれくらい重要か、彼らの恩を忘れることがどれくらい醜いことかを示すものです。


両親は、その子供達にとって最大の愛情と慈しみに値する存在です。父は誰よりも、自分自身よりも子供たちがよくなることを望みます。また子供たちは父に対して彼らの権利を主張することは出来ません。言い換えるなら、論争すべき理由は両親と子供たちの間には存在しないのです。論争の原因となる妬みは、父親の側にも子供達の側にも存在しないからです。または論争は、権利の濫用から生じるものであり、そして、子供たちは少しの権利も彼らの父に要求する立場にはないのです。


もし父親が自分の責任を果たさず、あるいは子供たちを虐待するようであれば、子供たちが父の振舞いを重んじると予想することは合理的ではないかもしれません。しかしこれは他の状況においての反抗を必要とするものではなく、また蔑視することを正当化するものでもありません。このような状況でも、子供たちは神によって承認された方法で父に従うことができ、そして父の為に祈ることが出来るのです。


母親はみなの愛と敬意の最高の段階に値する存在です。認められた伝承において、預言者ムハンマドは次のようにおっしゃられています。「天国は母の足の下にある。」(アフマド・ナサーイ)


また別の伝承においても、次のような出来事が記されています。
一人の人が預言者ムハンマドのもとに来ていいます。「神の使徒よ、私の交友関係の中で最も尊いのは誰でしょうか。」預言者ムハンマドは答えられます。「あなたの母だ。」男が再度問います。「次には誰でしょうか。」預言者ムハンマドは「あなたの母だ。」と答えられました。男はさらに尋ねます。「それから?」預言者ムハンマドは「あなたの母。」と答えられます。男はもう一度尋ねます。「それから?」預言者ムハンマドは答えていわれます。「それから、あなたの父だ。」(ブハーリー・ムスリム)


大学生における自傷


子供たちへの愛情


完全な慈しみと優しさを伴う子供への愛情と保護は、それを、慈悲深く寛大な神の贈物と見なすことによって神と結ばれます。彼らが死ぬ時、絶叫して泣き叫ぶのではなく、忍耐と感謝を示すことが、その愛が神ゆえのものであることのしるしとなります。そしてこのようにいうのです。「この子は創造主によって創造され、守られていた、愛らしい人だった。主は私にこの子をゆだねられていた。今、主の英知がそれを求めたため、この子は私から戻された。よりよいところへと・・・。私がもしこの子に、見かけ上の一つの権利を持つのであれば、この子の創造主は千の、真の権利を持っているのだ。」


さらに、「全ての権限は、神にある。」ということによってその状況を甘受するのです。


友人に対する愛情


もし彼らが、その信念と善行がゆえに、全能なる神の友であるのなら、「アッラーゆえに愛しなさい。」という観点から、友人や仲間への愛も、神に結び付けられるものとなります。


配偶者への愛情


配偶者への愛情は、それが一時的な特質を条件にしない場合、神ゆえのものとなります。夫は妻を、慈悲深い神からの親しみやすく魅力的な贈物として愛します。彼は妻の肉体的な美ゆえに妻へ愛情を抱くのではないのです。それは見る間に衰えてしまうものです。女性の最も魅力的で快い美しさとは、その彼女独自の繊細さと優雅さを伴う、性質の素晴らしさなのです。


彼女の最も貴重ですてきな美しさとは、彼女の正直さ、誠実さ、高尚さ、そして明るいいたわりです。この美しい優しさとよい性質は彼女の人生の最後まで続くもので、さらには増加さえするのです。弱く繊細な人の権利は、その愛によって保護されるのです。さもなくば、彼女の表面的なよさが衰える時、そして彼女が最も権利を必要としている時、彼女はその権利を失うでしょう。


同様に、妻は夫の見た目のよさ、強さ、富によって夫を愛するのではないのです。それらはほんの一時的なものです。その代わり、彼女は天国の庭での永遠の仲間として、そして自分の時間、エネルギー、富を家族の幸福のために犠牲にする彼の、この世における慈しみ深い仲間として彼を愛するのです。


信心深い人々への愛情


主の最も尊いしもべとして、預言者たち、聖人たちを愛することは、神ゆえのもの、神の名ゆえのものです。その人々のためのものではないのです。こういう形である場合、この愛は神に結ばれます。神ゆえでないならば、その愛によって私たちは彼らをアイドルとしてしまうかもしれないのです。


生命と若さへの愛着


神話:肥満


生命に対する私たちの愛着は、私たちがそれを、永遠の生を手にするための最も貴重な富、資本だと見なして愛し、保持するならば、神ゆえのものとなります。私たちは生命を、永遠の完全性を与える宝庫だと見なします。それは全能なる神が私たちとすべての人類に与えてくださったものです。私たちの時間を主への奉仕に費やす時、生命への愛着は真に崇拝されるべき存在へと結びつくのです。同様に若さへの愛着は、それを神からの素晴らしい、甘美な恩恵と見なすなら、痛みを伴わない愛情となります。そしてそれを、神の導きのもと、適性に用いるのです。


春、そしてこの世界への愛着


春への愛情は、私たちがそれを、熟考のうちに、全能なる主の輝かしい御名の、最も細やかな1ページ、最も美しい刻銘として愛するなら、神の美名への愛と変わります。この見方をとるなら、春は、全知の創造主の最高の芸術の、最もきれいに飾られた展示と見なされます。同様に、私たちがこの世を、来世のための耕地、そして神の美名を映す鏡、そして全能なる神の手紙として愛する時、この世への私たちの愛着は、アッラーゆえのものとなるのです。私たちはこの世を一時的なゲストハウスと見なします。そこで私たちは魂を訓練するのです。自分の肉体からの凶悪な命令と戦うことによって、より精神的に高い段階に達することが出来るように。


要するに、神ゆえに愛することは、この世とその住民を愛することを求めます。自分たち自身の為に愛するのではなく、自分たちを超越するものを示しているものとして愛するのです。美しい被造物を目にした時、私たちは「何と美しく創造されたのだろう。」といいます。「何と美しいのだろう。」という代わりに。


神ゆえの真実の愛着は、他の愛がその人の心の内側に入り込む機会を与えません。なぜなら心の内側は、永遠に懇願されるお方の鏡であり、そのお方のみを映すからです。この愛情は、次の祈りによって結晶化します。「神よ、あなたへの愛を私たちに与えてください。私たちをよりあなたへと近づけるものへの愛を与えてください。」


このような形を取る時、上に列挙したそれぞれのタイプの愛は痛みを伴わない喜びを与えます。そしてある点において、無限の一体化をもたらします。そしてそれは全ては私たちの神への愛を増させます。永遠なるお方との結びつきによって、このような形での愛情は感謝の思いとなり、純粋な喜びの源となります。

りんごの物語


それを与えてくださった存在の為に何かを愛すること、そしてそれ自身の為にのみ何かを愛することとの間の違いを理解する為に、次のような話を考えて見ましょう。


もし、強い王様があなたにりんごを一つ与えるなら、そこにはりんごへの二種類の愛情があり、二種類の喜びが存在するでしょう。



まず、あなたはそれが美しく、おいしいものであるという理由で、このりんごを愛するでしょう。この愛に結びついている喜びは固有のものであり、りんごの存在とのみ関わっています。この愛情は王とは関係ないものです。この種の愛を感じ、王の前でそのりんごを食べるなら、その人は王よりもむしろりんご自体と彼ら自身の魂を愛しているのです。王はこの種の、本能的な精神を培う愛を好まれません。それをひどく嫌われるのです。


さらに、りんごが与える喜びはとても限られた、刹那的なものとなります。それが食べられた後は、それがなくなったという悲しみのみが残ります。


しかし二番めの愛のタイプは、王の行為に感謝するものです。まるでそれが王の好意のサンプル、具体化であるかのように、りんごが何か貴重なものであると考える人々は、王への愛情を示します。そしてその果物、すなわち王の好意のいれものによる喜びは、千個のりんごが与えるものよりもはるかにおおきいものです。この喜びはその時、感謝の精髄となり、そしてこの愛は王への敬愛なのです。


結論


私たちがそれらで自分たちと喜びのためのすべての気前のよさと果実がそれらがもたらす肉体的快楽でだけ好きであるなら、私たちの愛は単に自己の愛です。


もし私たちが、全ての恵みや果実をそれ自体のみのために、そしてそれらが与える物質的喜びのみのために愛するなら、私たちの愛は単にそれ自体にたいするものに過ぎません。このような喜びは一時的で、痛みを伴うものです。しかしもしそれらが、神の慈悲からなる好意として、神の気前のよさの果実として愛されているなら、それらはいつもその出自を私たちに思い起こさせるでしょう。


そこにおける神の好意や気前のよさに感謝し、喜びが得られるなら、それは感謝を意味し、同時に痛みのない喜びとなるでしょう。果物の味は消えるかもしれません。しかし果物という贈物を与えたお方は永遠です。最愛の人は死ぬかもしれません。しかし全ての存在の創造主、それらを生かされるお方は永遠です。見かけの美しさは衰えるかもしれません。しかし真の美の源は衰えないのです。


痛みのない愛の処方箋とは、一時的なものから私たちの愛を遠ざけ、それを永遠なる存在へとむけることなのです。そしてすべてをその存在ゆえに愛することです。13世紀のトルコの神秘的詩人ユヌス・エムレは、その詩で簡潔にこの認識を表現しています。


「私たちは、創造主ゆえに全ての創造されたものを愛する。」

 



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