1992年大会〜アトランタ〜 第一話
9/4(土)
新幹線を使い東京へ、山手線にて日暮里駅下車、京成線にて成田へといういつものコースに、
今年からは成田の一つ手前の第2空港ビル駅下車。をまずは順調に辿った。
順調にという意味は、台風13号の直後というきわどい日程に内心ひやひやしたからで、
この台風には、戦後最大級というタイトルがついて普通ではないという恐怖感が早くからあって、
九州の選手団はどうなのか心配になった。
近畿組も台風通過と出発の時間帯が重なり、前日から行くべきかどうかの判断に苦慮した。
しかし、どだい何も準備のできていない大森などは、何がどうなろうと当日出発とするほかなかった。
この出発日は「東京では私の学校をはじめ、休校する学校も多く、こんなことは初めてで す。(鈴木選手)」
ということでも普通ではなかった。
不思議なこともあるもので、日暮里駅で鈴木さんと偶然お会いした。(AM10:40)
そして、成田第2空港ビルのエスカレーターを上がったところで新居田さんなど近畿組4人と出会う。
台風を懸念し前日から成田に宿泊したとのこと。
同じ飛行機ということもあるが、それにしても2〜3時間前という漠然とした時間帯の中での
出会いはどう考えるのか、世の中には偶然ということはあり得ず必然だという高僧の話しがあった。
その高僧の話しでは自由に相手を呼び出せるという。
もしかしたら、鈴木さんと日暮里で会えるかも知れないという気持ちはあったし、
電話でも冗談をいっていたけれど、そこまでの話しである。
デルタ� ��空DL52便は予定時間を58分遅れて午後 6時22分に離陸した。
8時間余で東京から横に真東に当たるポートランドに到着し入国手続きをする。
入国審査官が丁寧な人たちで米国人以外は2〜8番のゲートをという指定。
待つことしきり。まるで列が進まない。ワールドマスターズの大会にアトランタへ行く。
アトランタで10泊する。その住所はここです。と英文の大会要項を見せる。
この3人が一緒です。といえば、OK。こちらが一方的に喋っただけですんなり通過。
1時間ほどで、同じ飛行機にて離陸。4時間半ほどでアトランタ着。すべて順調で時刻は午後8時丁度に着陸した。
とても午後8時とは思えない明るさである。
アトランタ空港は大きく、新しいシステムを取り入れた空港で、ターミナルへの輸送システムであるライ ナーが素晴らしい。
近畿の4人組は飛行機を乗り継ぎ何処かに出かけるようだった。
荷物を受取り、出口に向かうと
壁際に1993WorldMastersと書いた新聞紙を広げた位の大きさのパネルを両手に掲げた黒人の太った中年男を見つけた。
二言三言、言葉を交わす。いい男らしい。タクシーの運転手だった。
「信用しましょうか?」と振り向くと古賀さん、鈴木さんが「いいですよ!」。
出口の警備員とこの運転手は親しそうに会話を交わした。
コーチと呼ばれる10人乗り位いのミニバスが直ぐ出口に止まっていた。
一列に一人が荷物と一緒にゆったり乗ってコーチは片側6車線の広い道路をひた走った。
人柄がそのまま出ている感じのおとなしい運転だった。デイズ・インに着く前に無線電話で何か話� ��た。
約40分で着いた。45ドルだといった。100 ドルを出し50ドルを取るようにいったら、にっこり笑った。
これからが大変なことになった。
フロントの金髪で高校生のような小柄な女性とやり取りが始まる。予約が入っていないという。
ぼくたちは、英文の申込書を見せた。これが以外にものをいう。
インボイスということになるらしく大会責任者のビル・ニコルソンに電話をいれて連絡を取ろうとしたがビルがいないらしい。
その間も、どんどん車が横付けされて飛び込みの宿泊客が来る。
小柄なフロントがその時だけ作り笑顔で空室がないことを告げる。
黒人の青年が両手を広げ「オー・ガッド」といって肩をすくめ白けて車に戻っていく。
その度に僕たちの手続きは中断する。
ぼくたちは、へぇー、こんなホテルでも満員なんだ。� �かなんとかいいながら事態の好転を待つ。
しかし、一向にらちがあかない。やっと一部屋を確保してくれて、明日改めて部屋を確保する約束でとにかく横になった。
もう12時を過ぎていた。ホテルもホテルの食堂も24時間OK。
それから、朝になって、それぞれが個室に入ったのは正午前だった。
8日間の宿泊で $435.12(1泊 5,500円)を前払いだという。
全員TCを切った。海外に出て最初にTCを発行する時の気分はいつもリッチな気分でいいものである。
ここは、車をすぐ部屋のドアの前に止める方式の米国一円に見られるモーテルである。
インド人の経営でランクは下の下だと見た。これが豊かなアメリカにある宿屋なのかと失望した。
中庭には小さなプールがあってサイドに寝椅子やパラソルがあった。
ドイツの選手たちは喜んで利用しているみたいだった。
しかし、この時はまだ、もっとひどいことになるということは知る由もなかった。
ドイツの消防職員シュッスラーさんとホテルの入口でばったり出会った。
手紙と消防の帽子をありがとう。といって奥さんを紹介した。握手を交わし、無事の再開を喜び 合った。
「いくらからやるの?」というから「105 の140 からスタートするよ。」といったら「それは、強いな。」といった。
一昨年、ドイツで大会があったときにどうしても自分の消防署を見てほしいと
彼の愛車の日本車でアウトバーンを飛ばしマンハイムにある消防署につれて行ってくれて
庁舎から消防機械にいたるまでドイツ語で丁寧に説明してくれた人である。
消防車、救助車、救急車みんなメルセデスで揃っていたのが羨ましく、今も鮮明に記憶している。
9/5(日)
フロントのインド人女性が今日は日曜日でタクシーも休みだという。車のない僕たちは宿舎に缶詰めとなる。
この日は、すぐ隣と国道を挟んで向かい側にあるガソリンスタンドに付設の雑貨屋を覗きに行く、
スーパートラックのいなせな若者の着る刺青模様の黒地のTシ� ��ツ 800円、
飲み物や菓子類、その他日本の価格から見ればかなり安い。
ジョージアはとても厳しいところで日曜日はビールなどアルコール類は買えない。
平日でも夜12時を過ぎると買えない。(お酒類の自動販売機は無い。)というもので、建て前だけでなく、本当に売らなかった。
疼痛管理医師ramineni
面白いのはガソリンスタンドで自動販売機に先にお金を取るか、入れ終わってから取るか、
その方式で、地域の治安状態が分かるという。因みに、ここは、後払いのシステムで、
少し向こうに行けば、先にお金を取るということだった。
9/6(月)
会場のアスレチックセンターを見ておこうと古賀・鈴木・大森でフロントにタクシーを頼む。
丁度居合わせたドイツ人グループと乗り合いで一緒に行こうということになった。しかし、タクシーは待てども来ず。
何度もフロントと掛け合っているうちにミニバスのコーチが到着した。
タクシーが来たと駆け寄ると、武藤先生の日本人選手団の姿が見える。ドアを開けてお迎えする 。
ようこそ!お疲れさま!花紺の上下のトレーナー、胸に鮮やかな日の丸。
この一団が入口付近にいたドイツやアルゼンチン選手たちを圧倒した。
「兒玉さんがね。空港まで来てくださって。台風が大変な被害でね……。」と後は絶句。
「そうですか。被害が大変なのに、よく来てくださって…。そうですか…。」
「被害状況の写真を預かって来ています。後でお見せしますよ。」
どんなに楽しみにされていたか。
「世界大会一本にかけますから。」といっておられたのを、はっきり覚えている。
大会が終われば、留学中の娘さんに会うのを楽しみにしておられたのに…。
そうですか…。兒玉さんには、お気の毒なことになった。
さあさあ、まずはフロントへ、手続きをしてください 。と案内する。
すっかり疲れているという感じで気怠るそうに癖のある英語を話す小柄で痩せたインド人のフロント女性と、
もう、うんざりするようなやり取りが始まった。
一人づつの部屋を決めるのに予約がないとか何とかトラブッて武藤先生と
「そんなはずはない。全員、予納金も入れて申し込んでいる!」とこちらもフロントにがんとして対抗する。
英文の一覧表を見せる。やっと相手が納得する。それから一人づつの手続き、
入金、部屋の鍵を受取るまで何と時間が掛かったことか。
フロント前のロビーで荷物を見張っている者、掛け合う者、手続きをする者とこちらの手順と相手の手順が合わず、
スローなのにイライラしながら…
全員が終了し部屋に落着き、食堂に集まって無� ��の再開を喜び合い、これからの確認をするまでに約2時間を要した。
食堂の椅子・テーブルを円形に並べてもらい席につく。
再び、児玉さんの話しになる。餞別まで預かってきました。ということで、お見舞いをしなければいけないのに、と佐藤さん。
兒玉さんのお人柄にみんなが改めて感激した。被害の写真も見せていただいた。
ここで、本来なら先着組みから逐一、会場のこと、日程のことなど、
参加選手のことなどをプログラムを見て報告する手はずなのだが、
今回は、殆ど、手持ちの情報もなく、ひどいものだった。ホテルに缶詰めだからである。
それよりも、ここに着く前に、会場に寄ってきたということで逆に、先着組みが教え� ��いただくことになった。
今日は、まだ準備中の会場に行ってもあまり意味がなかろうということになった。
食事をする段になって、先着のわれわれがメニューの中身で、これは旨いですとか、
こちらのは量が多すぎるとか、これは味がどうとか、そういうこと位はメニューユを手に、得意になって説明した。
陽気で若いゴムまりの様なピチピチの身体に目が大きくてくりっとした黒人のウエイトレスが笑顔で注文を取りに来た。
向かいのガソリンスタンドに併設の雑貨屋に行く。もう、そこしかないので仕方がない。
入口でハーレ・ダビッドソンの一団に会った。ハーレはいうまでもなく、米国製で「単車の王様」である。
何故か、もっと早く走るBMWやブガッテイやホンダではなくて
「単 車の王様」は昔から米国の「ハーレ・ダビッドソン」と相場が決まっていて、これを否定する者はいない。
大きくて、まず姿がいい、風格があるのだ。
馬に乗る格好で乗るように設計されているというとおり、堂々とした姿勢で単車に跨がることになる。
1台はワゴン(ハーレの純正)を牽引している。
もう1台は、側車付き。背もたれを極端に高くした、あのイージーライダーのタイプが2台。皆んな粋なライダーだ。
ことに老夫婦が粋で、Tシャツもジーンズのバックルも首のスカーフにもハーレ・ダビッドソンのマークがあった。
みんながカウボーイ・ブーツの中で長いふさのついたバックスキンのインディアン・ブーツを履いた粋な婆さんと話し合った。
「アトランタでリフティングの世界 選手権かい」「オリンピックへも来るのだろう」
「いやいや、マスターズの大会ですよ。」「これは、メイドイン・USAなんだ。」
「そうだよ。ナンバー・ワンよ。」などと。
やがて、ひさしの付いたハーレのヘルメットをかぶり、
バイバイをして婆さんは後部の大きな座席にブーツのふさをひらめかして跨がり、
でかいヒップをいれて爺さんの肩につかまった。
「ハブア・ナイスツウリップ」(よい、ご旅行を!)といって僕たちは手を振った。
ハーレの一団も手を振って何かいったが、ハーレ独特の腹に響くエンジン音に消されて聞き取れなかった。
国道に入る前にブーツの両足を前に投げだし、長距離ライデイングの姿勢を取って加速していった。
駐車場には大型トレラー専用の駐� ��場があって。何時来ても凄いトラックを見ることができるので楽しみだ。
米国でしか見られないトラックのスーパーカーである。
運転室の後部に大きな煙突のような排気パイプが立っているタイプでタイヤの直径は180センチ位もある。
荷台もすごく長い。
こちらでは、チェロキィが軽自動車にしか見えないのである。
こうして、飲料水やジュースなどを両手に下げてこれらの怪物トラックの前を横切ってホテルに戻る。
こんな日課が続く。
ホテルのプールサイドでドイツ人のグループが葉巻を吸いビールを飲んで陽気に騒いでいる。
フロント前で「ミスター・コガ」とドイツ人が古賀さんに近付いて握手を求めた。
名前を呼ばれた古賀さんが感激された。
それはもう、イマハラと� ��宿命の優勝争いはあまりにも有名で、やっぱり世界の古賀さんだ。
更に、大阪の2名と京都の2名のグループが旅先からホテルに無事到着。
これで急な用件ができて参加できなくなった藤本さん、兒玉さんを除いて全選手が揃った。
9/7(火)
急遽ニューナンのツアーに行く。これは、前日に武藤先生に予約を入れていただいた。
PTA婦人会役員という感じのスマートな白人のおばさんが乗用車を運転して来て、
私は輸送関係の責任者ですが、何人がツアーに申し込んだのかという。
現在の不況
十数分のやり取りの後、バスを差し向けるといい残し帰っていった。
間もなく、2台のコーチ(シボレーのミニバス)が、やはり婦人会役員という感じの白人の女性が運転してホテルに来る。
アスレチック・センターの出発点で大型の黄色いスクール・バス(ボンネットタイプ)に乗り換える。
乗るときに一人15ドルを払う。ガイドさんは白人の小柄なおばさんでてきぱきと案内した。
運転はPTA役員という感じの黒人のおばさん。
ニューナンの町の観光は、古い住宅の見学である。
1800年前半から後半にかけての南北戦争前後の建物が現在も保存され住宅として使用している。
白い大きい木造建築で玄関部分が吹き抜けの大きな通し柱� �あって、
円を描いた策があるポーチがあって、椅子が数脚置いてあってといった様式は、
あの映画「風と共に去りぬ」で見た舞台の様だ!妙に気分が落ち着いていいものである。
周囲の巨大な樹木と緑の空間に良く合っている素敵な建築である。
そして内部の家具調度品もその年代のものと分かるレイアウトがされていて、良かった。
ステンドグラスの窓がいい。ランプの傘がいい。
同行の米国人の老婦人が「これ、ティファニィよ!」と教えてくださった。
ティファニィにしては、素朴な感じがしたが、あの赤はティファニィの赤だなという気がした。
これらの古く美しい重厚な住宅が町中の一角をなし、いずれもが今も、住宅として使われていて、
日中は観光客のために開放している様 で2階部分がプライベートとされている。
居間のソファー横に置いてある雑誌入れには
今日の新聞がバーベルを挙げた選手の写真部分
(本大会の記事)をわざわざ広げて何気なく置いてあるという嬉しい心配りがしてあった。
ここのご家族は、ご主人が旅客機の機長さんで、小さい男の子がいてこの人が奥さんですよ。
と棚の写真立てを指差して役員さんが説明してくださった。
こういう古い住宅に住めるのは、ニューナンでもお金持ちで、みんなの憧れの的だそうだ。
バスごと乗り付ける大きい敷地の住宅も見た。敷地に大きい池があって、
池の縁で鴨がグループをなし、羽づくろいをしている。
そして、広い庭にドーベルマンがいて、ハスキー犬がいて、
古い馬車があって背もたれ 付きの大きな白いブランコがあって蔦で作ったベンチや
肘かけ椅子が大きい木の下にあって、つるべの古井戸があった。
これだけの敷地なら馬を飼いたいですね。と蔦のベンチに腰掛けて星野さんと話した。
「星野さんのお宅でも馬を飼えるんでしょう。」「ええ、飼えないことはないけどね。」
「いいでしょうね。」
武藤先生が横から、「星野さんは、犬の専門家ですから。何度も優勝もさせているし。」
「それも、奥さんのお力によるところが大きいんでしょうね。」
「そうです。」と星野さん。
「その上、馬の世話まで、誰が見るの。そうなりますね。」
「犬の糞の匂いがしませんね。星野さん。」
「そう、ぼくもそれが気になって、ちょっと調べたのですが、糞が見当たらんので す。」
「しつけがいいのですかね。」
「デンマークの大会のときも、民宿した家に,猫を沢山飼っていたけれど、猫の匂いがしなかった。」
「これは、すごいと思いました。」などと、
ぼくたちは1800年代を現代に駆け巡り、ひとときの夢を見た。
自分の敷地を自分の好きな馬で駆け巡るという……。
前川さんの奥さんが小切手帳をホテルの通路で拾われ、どうしたものかと相談に来られる。
フロントへ届けるしかあるまいということになり、武藤先生がMrs.Maekawaが拾ったと届けられる。
フロントでは聞いていたらしく、インド人のおやじが感謝を述べ客室の方に持って行った。
まだ、辺りがとても明るいのに、時間を見ると午後8時を過ぎている。
食事にでもという� �とになって、村本さん、古賀さん、今野さんと大森で食堂に行く。
マスターズの話しになる。世界大会の日本開催の可能性についての話しになる。
そして、マスターズの素晴らしさについての話しになる。
いろんな国の選手と毎年、世界の何処かで会い、
選手として無事であることを確かめ合うのって素晴らしいと思う。
村本さんがしみじみといわれた。
「私は、元は市役所の職員でした。今の仕事になるまでに職を17も替えましたものね。」
今は押しも押されもしない村本制作所の経営者である。
「こちらに来て、電話も掛からない。人とも会わない。こんな贅沢な時間を持てたのは久し振りです。」
とホテルの個室で孤独な時を楽しまれる村本さん。
しかし、事業内容が拡大 していくということは、事業にかかわる接遇に費やす時間も多忙を極めることになる。
いつしか身体の内部から蝕まれ、気がついた時には大変なことになっている。
という成功者によくあるパターンから村本さんも逃れられなかった。
大手術をし、身体は二回りも三回りも小さくなった。
このままではいけない。と思ったとき、自分にはリフティングがある。と気付く。
成り振り構わず全日本マスターズ大会に出場した。何がなんでも世界大会に出て置きたかった。
これからの人生を整理して置くためにも…。
村本さんには、今回の世界大会への出場は、今後の自分を占う大きな意味があった。
もう体力的に駄目というところまで行って地獄を見た。
そして、今後の体力管理をどうするかとい� ��ことは自分というアイデンティをどう考え、
コンセプトをどこに置いて実践をしていくかということで「生」を得るしかない。
村本さんの言葉の端々から、只ならぬ決意が感じられるのである。
「来て良かったです。」と村本さん。
そこへ、ローゼンバーガー氏がぼくたちの席に来て、Mr.Mutoにこれをわたしてほしいと、
ドイツの氏の地元で発行されたジャパン・ウィークの掲載記事がある新聞を差し出した。
「明日のバスは何時なの?」と聞くと、最初が 7:30 で次が…と教えてくれた。
9/8(水)
いよいよ競技が始まった。
各国のプラカードをそれぞれの国の代表選手が掲げてアルファベット順に入場するオープニングセレモニーが行われ、
日本を代表して古賀選手が出場された。
午後 2時からの競技には鈴木・新居田各選手が、まず出場する。競技開始の2時間前が検量時間。
検量の時、パスポートの提示が必要で、この時に、スタート重量の確認と確認をしたという意味で
スタート重量が記載してある行間に選手本人のサインを求められる。
更に、本日は中島選手が出場し、その後で、吉田・田島・村本選手が競技をして日本の6名が初日に競技を終了する。
結果は、54s級(U)に出場の鈴木幸宏選手(東京都)がS-70.0,J-80.0,T-150.0 で優勝。おめでとう!。
ベース·トレーニング·減量サイクリング
何時も日本選手では最初に出場し、最初に優勝するのが鈴木さんである。
もう5年も続いている。これは大変なことである。体調の良い時ばかりであるはずがない。
よほどの強い意思で対応する必要があり、尋常な精神では成り立たぬ。鈴木氏の強さはそこにある。
日本チームの誇りである。鈴木氏は更にホームを改善して、もっと強くなにりたいという。
今回は特に体重が増え、減量に苦しんだ。
Sの3回目は80.0sを軽く引いたが後ろに抜ける。この時、左肘をしこたま痛める。
もうジャークはやれないかも知れないという思いが脳裏をかすめる。
案の定、Jの1回目80.0sは、まるで差していない。
本来の予� ��よりスタート重量を下げた場合に、
自分ではきまりが悪いくらい低い重量という気持ちがあって、軽くやれると思うものだ。
「鈴木さん80をなめたら駄目!とセコンド陣から檄が飛ぶ。」
2回目はスーッと挙がる。Jの3回目は90.0sのクリーンを軽くやったが前差しになり、わずかに止まらなかった。
表彰式では大柄な紺のブレザーで正装した米国役員の君が代独唱があった。これには感激した。
声量に迫力があって日本語もよかった。
表彰式の後、1時間以上も鈴木氏が戻らなかった。生まれて初めてドーピング検査を受けたという。
そこで、どんな手順だったのか話してもらった。
これは、いうまでもなく世界マスターズの大会が今年から、みんなの今迄の努力でIWFに正式に加入し� �ことにより、
IWFルールにより実施が義務付けられたもので、
この種の検査機器が世界でもそれほど多くあるとは思えないのだが、とにかく対象者は優勝者のみに限定された。
以下は鈴木氏の話。……
入室前にミネラル・ウォーターとかコカ・コーラが置いてあって、好きなものを飲まされた。
個室に一人ずつ入室。ドクターらしき人3名(内1名は女性)が立会者。この女性は東京にも行ったとがあるという。
氏名、国名、生年月日が間違いないか確認しサインをする。
個室のトイレに入る。膝から胸まで着衣を開放するようにいわれプラスチックのコップを手渡される。
男性の係員が後ろで見ている所で尿を出す。
次ぎに、ビニール袋の中にプラスチックのビンが2っ入っているのを 手渡され、コップの尿を2っに分けるようにいわれる。
栓をして、封印し、封印のシールにサインをするようにいわれる。
A3判6〜7枚の用紙にチェックを入れる。
3人の内、1人の女性はドーピングのプロだと思う。(鈴木氏)
その間、1時間半位かかっている。ということであった。
59s級(W)に出場の新居田耕三選手(京都府)がS-55.0,J-75.0,T-130.0 でCに入賞。
デンマーク大会から4年振りの出場でD・ワグラム(オーストリア)の大会から8年振りの参加になる。
その8年前に一緒に出た選手が今回も何人か来ていて
「こちらも年を取ったけれど、みんないい年の取りかたしている。」と新居田さん感心することしきり。
64s級(X)の中島豊選手(大分県)が午後4:00のスタートでS-65.0,J-80.0,T-145.0 を決めB位に入賞。
スナッチの3回目70.0sは引きがわずかに少なく、入れなかった。
ジャークの3回目85.0sは腰が逃げた感じになってバーの下に入れなかった。
このクラスはマスターズ界のスーパースターであるプエルトリコの高校教諭で定年退職したペドロ氏がいる。
スナッチ 120.0s、ジャーク 178.0sが東京オリンピックのプエルトリコ代表になった頃のベスト記録という。
とても控え目で優しい男だ。日本人といっても、そう見える雰囲気の人である。
この翌日、村本さんがかたい握手を交わした人でもある。
話は変わるがやはり翌日、中島さん会場でトーマス・ウォルター氏(70s級WでB)から
コカ・コーラをピンクリボンで綺麗に包装したものをプレゼントされた。
握手を交わして喜んで去っていったのだが、(後で分かったが同じ3位同志の祝福を、ということであった。)
「世界は広いし、いろんな人がいる。お互いを称え会う精神がいい。」とさかんに頷いてニコニコ顔の中島さん。
そして、来年(平成6年)の3月まで生徒と一緒に練習できる。
国体少年の部大分県代表選手3名の 内、2名の面倒を見ている。自分も一緒に好きなことに集中できる。
とまさに、青春時代の中島さん。
体重クラスの年齢の多いグループから順に競技が進んでいく。
次は、同級(W)の村本鉄也選手(熊本県)が午後6:00のスタート。
S-70.0,J-85.0,T-155.0 でB位に入賞。おめでとう!体重 63.39は減量し過ぎと感じる。
2回目スナッチ75.0sはバーが後ろへ通り抜け、3回目は脚に来た。
これがきついけいれんになりはしないかと不安がよぎる。
ジャークは1回目が 2-1の赤。このままではいけない、もう、何が何でもやらなければ、2回目が 2-1の白でOK。やった!
3回目は右手の差しがやや遅れて失敗。減量が脚に来る恐怖を味わったジャークだった。
1位は世界のプレジデント・日系のイマハラ氏が万を持してS-85.0,J-102.5,T-187.5で、
2位はグラン・マスターの称号を許されたスコットランドのジョン・マックニーベンS-77.5,J- 92.5,T-170.0。
ジョンよりも大柄で実直で控え目な感じの奥さんがいつも一緒、いい人である。
Cが米国のピーター・カールトン T-147.5,
Dが英国のロルフ・レイシェル T-145.0、
「勝負にこだわる気持ちがもっと必要で、甘えた考えでは世界のひのき舞台では勝てないことがよく分かった。」
と振り替える村本さん。
十分とはいえない体調で、このメンバーに堂々と割って入ったのである。初参加の銅メダルおめでとうございます。
同スタートで同級(U)の田島俊信選手(大阪府)がS-82.5,J-105.0,T-187.5でA位に入賞。
世界の銀メダルである。おめでとう!
同級(T)の吉田三郎選手(京都府)がS-70.0,J-85.0,T-155.0 でB位に入賞。
アップの時、「バーが体から離れている。もっと腰を寄せて、体全体を使って!」
とセコンド陣から指示が飛び、素直に答えた吉田選手。初出場で入賞は何より。
異国の地で初めて握ったバーベルの感じはどんなものであったか…。おめでとう!
こうして好成績で日本チームの初日が終わった。みんな綿の様に疲れて、ホテルに帰りベッドに沈んだ。
9/9(木)
正午から70s級(W)グループの古賀選手、今野選手がスタート。
いよいよ世界のスーパースター古賀さんの出番である。
しかも、今年は、やはり日本の第一人者今野さんとの2枚壁だ。これは強力である。
例年の様にイマハラ議長がこれに加われば、見る者にとって、これ以上の好カードはあるまい。< /p>
が今年はイマハラ氏が安全パイを打って、体重クラスを下げ古賀さんを避けた。
どうしてもトータルで10s前後、古賀さんには勝てないという過去の経緯があるからだ。
この時は、もう会場が日米の応援に二分する。セコンド陣営が持てる限りの情報を基に決断する。
国別セコンド合戦ともいうべきあの会場のフィバーが今回は無い。
しかし、イマハラ氏にすれば、どうしても、今回は何が何でも優勝しないといけない大切な地元大会である。
リーダーとして強さを示す必要のある実在主義の米国で、それは十分過ぎるほど理解できる。
米国のパパ、文豪ヘミングウェイが年齢を重ね、体が動かなくなって、鉄人振りを発揮できなくなった時を予感して、
スーパーマンとしての誇りを永遠にするため自らの生命を絶ったように……。
いつもと変わらぬ慎重な姿勢でバーに近づき、万全のスタート姿勢を取る古賀さんは
@S-90. 0,J-105.0,T-195.0を決めて優勝。おめでとうございます!
一方、体重が 68.83と軽い今野さんも、精神的にも有利に駒を進めて
AS-80.0,J-100.0,T-180.0を挙げ、米国のトーマス氏(69.72)を寄せ付けなかった。
2位の銀メダル獲得。おめでとうございます!
Bが米国のトーマス・ウォルターS-80.0,J-97.5,T-177.5
Cが南アフリカのリチャード・マネベルド S-75.0,J-100.0,T-175.0
Dが英国のケン・クリッフォード T-127.5
Eが米国のリチャード・オッテンT-120.0
同級(U)に出場の金子選手が午後2時00分のスタート。
76s級に出場の佐藤選手、前川選手が午後6時00分に同グループでスタートの段取り。
ところが、佐藤さんに体重超過のハプニング。出場級を一つ上げ明日、83s級に出ることにする。
金子選手は、安定したフォームで実力を発揮し@S-105.0,J-130.0,T-235.0 を決めて優勝。
Aはフランスのベルナール・ハルガンがT-205.0
Bはカナダのケン・ミラーがT-157.5 であった。
抜群の金メダルおめでとう!1991年のオーストリア・マッタスブルグ開催以来2度目の表彰台である。
76s級(W)グループ、午後6時00分予定どおり前川さんの出番が来た。
競技が進む。これはノミネートより随分強いぞという雰囲気がセコンド陣を取り巻く。
スナッチで@ 105.0sがドイツのルディ・セイデル、A90.0sがポーランドのマリアン・リンコウスキー、
B80.0sが米国のアラン・ポルマー、
これで、セコンド陣としては、何とか前川さんをBにタイで付けたかった。古賀さんが奔走された。
会場で進行を見る者、放送席のカード順を確かめに行く者、前川さんのアップに付くもの。
しかし、Cにドイツのローザー・エベルマンが77.5sを成功させた。
上位5名の中では最も体重の軽い(72.29)前川さん。これを切り札に、もう1本成功させ3位以内に付けたい。
が、D75.0sにとどまった。苦しいスタートになってしまった。
もう1本が勝敗を分ける。それならジャークはどうか?
しかし、これもその期待を裏切る様に上位が順調な強さを発揮して駒を進めた。
待ちの姿勢で順 位の上がるのをじっと見守るしかなかったが不運としかいいようのない堅いレースになった。
ハプニングはなかった。世界を甘く見てはいけない。みんなはるばる勝負に来ているのだから……。
結果はスナッチの3位と4位が入れ代わっただけで全く順当に
@ルディ・セイデル(ドイツ)T 225.0 s、
Aマリアン・リンコウスキー(ポーランド)T 195.0 s、
Bローザー・エベルマン(ドイツ)T 187.5 s、
Cアラン・ポルマー(米国)T 177.5 s、
Dマサキ・マエカワ(日本)T 170.0 s、
Eが米国のジョン・ハリソンであった。
世界で第5位に入賞は、大変なことである。前川さん入賞おめでとう!
9/10(金)
83s級(V)に出場の佐藤選手は午後2時00分のスタート。
83s級(T)に出場の星野選手は午後6時00分のスタート。
PoolParty開催
本来、この日は、日本選手の出場に午後6時00分まで時間待ちがあるため、
主催側で準備されているニューナン・ツアーとは別に、プライベートにアトランタ・ツアーに行くことに決めていた。
しかし、佐藤さんのハプニングがあり、佐藤さん星野さんがツアーを止める。
当地で観光をするということは、日本で大会のついでに観光に行くような簡単なことでは実現しない。
武藤先生にお� �話いただき午前9時過ぎに大型観光バスに16名の日本選手団が乗り込んでアトランタへ向け出発。
ガイドは在米の日本人女性46〜47才位、運転手は温厚な中年の白人。
アトランタ市は約46万人の都市で7割りが黒人。ジョージア州としては 270万人で白黒が逆転する。
州は東京の半分位、米国で11番目に大きい州ということになる。
ジョージア州のニックネームは「ピーチ・スティツ」、花は「チェロキィ・ローズ」、木は「カシの木」、
鳥は「ツグミモドキ」でアトランタが州都。
20号線沿いにはマスターズ・ゴルフで有名なオーガスタの町がある。
ジョージア州(GA)の先住民族は北部にチェロキィ族、南部にクリーク族。
そこへ英国、アイルランド、ドイツ、オランダ、フランスの各国から移民が入る。
やがて、英国との独立戦争1700年代後半のことである。1776年英国からの独立。7月4日が記念日。36州が設置される。
そこから、13州が南部連合軍として北部と戦う、南北戦争(1861〜1865)勃発。
奴隷解放が旗頭だったが� ��南部は一帯が綿花畑で黒人奴隷の労働力が必要でもあり、
そういった背景のない北部では人道的な立場を主張した。
一方、1800年代初めウエスティング・アトランテック鉄道会社の敷設した鉄道をめぐる争いでもあったらしい。
アトランタは鉄道の終着駅という意味で鉄道の合流地点として発展した町でもある。
ターミナスからウエスティング・アトランテックそしてアトランタと町の名前が変化した。
9/11(土)
91s級(Z)に出場の武藤選手は午前10時00分のスタート。
91s級(W)に出場の藤原選手は正午のスタート。
99s級(V)に出場の大森選手が午後8時00分のスタート。
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